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クチコミ
心身がボロボロに疲れているときは、香りなんて心底うっとうしく感じるものだ。
入院していたとき、白い部屋の窓辺には、ただ空がぽっかり浮かんでいた。そこには仕事も時間もなかった。街の喧騒や車の渋滞もない代わりに、酸素や点滴、ドレーンのチューブらがベッドの周りで奇怪に混み合っていた。
日常から切り落とされた。毎日空を眺めながらそう感じていた。夜は、廊下で看護師が足早に歩く音、ストレッッチャーが慌ただしく移動する音を闇の中で聞いていた。大病院はめまぐるしく密やかに動いていて、検温と食事だけが規則的にやってきた。食べ物にも飲物にも味はなかった。そして決定的に匂いがなかった。それは手術の痛みで体を動かせない自分の嗅覚が麻痺していたせいかもしれない。病院生活には匂いがなかった。
ディオールのコローニュ・ロワイヤルの香りを初めてかいだとき、不覚にも涙が出そうになった。後にも先にも香りをかいで涙がこぼれたのは、ラルチザンのラペルトワだけだ。だから、なぜこのコロンでそんなに感情が揺れたのか考えてみた。そして思い出した。それは前述のとおり、自分の本当にきつかった頃を香りが呼び起こしたからだ。
ディオールのコローニュ・ロワイヤルをそっと手首につける。立ち上る香気にふれる。レモンの高い酸味、マンダリンのわずかな甘さ、そしてベルガモットのコクのある豊かなボディ、それらのミックスが柔らかく鼻を刺激する。ありきたりなシトラスミックスなはずなのに、本当に心地よく心に広がる。美しくピュアなシトラスオイルを使っているのだろう。雑味やエグみが一切なく透明な風が吹いている。そんなトップ。
3分後、透明感あるシトラスの微風が過ぎ去り、下から出てくるのはネロリの甘くふくよかな香り。ビターオレンジの花の、心をうっとりさせるような香りがふんわり立ち上ってくる。わずかにミントが効いているのか、オレンジミントのようなテイストも少し出ていて、全体にとても穏やかでつつましい香りだ。気持ちがブルーになると人の呼吸は知らず知らず浅くなる。それでも、そんな気持ちに寄り添って静かに微笑んでいてくれるような香りだ。そんなミドルが、淡くゆるやかに30分〜1時間ほど続く。
ラストは、ほんのりとあたたかい木の香りで終息する。サンダルウッドと書いているが、香ばしいあたたかみとわずかなオレンジの果実の残香がする。気が付くと、そんな温もりを残して消え入るエンディング。全体でも2時間で消失する淡い香り立ちのコロンだ。
人は、元気でパワーのあるときには出力の強い匂いに対しても平気でいられる。けれど、いったん心身のバランスを崩したとき、とたんに強い匂いや香りを受け付けなくなってしまう。ディオールのコローニュ・ロワイヤルは、そんなときに心をフラットにしてくれる、やさしく柔らかなオーデコロンだ。
古典的な「王妃の水」のレシピを基にしつつ、本当にいいシトラスを厳選し、ミントとサンダルウッドで絶妙に調合した逸品。現在メゾン・クリスチャンディオールとして22本の香りがラインナップされているうちの1本。ディオール・パフューム&ブティック表参道店の方のお話では、またこの中から廃盤が出るそうだが、名前までは教えてくれなかった。それでも、このコローニュ・ロワイヤルはぜひ残してほしいと思う1本。何しろディオール専属調香師、フランソワ・ドゥマシー自身が愛用している香りでもあるそうだ。
値段は新しく出た40mlで11500円。賦香率が低いコロンにしては値段が高いと感じる方もいるだろう。そのへんはこの香りが好みかどうかで評価の分かれるところ。
この香りに出会って、久々にあの頃のことを思い出した。梶井基次郎が小説「檸檬」で、病んだ心を冷たく爽やかに癒したレモンを描いたように、自分の病んだ心身も、柑橘の香りを吸って少し軽くなったのを覚えている。
退院の日、表に出ると、太陽はまぶしくてじりじりと熱かった。木々の葉擦れの音がさやさやと鳴り続けていた。そして、シトラスのコロンを鼻に近づけ、ゆっくりとその香気を吸い込んだ。その瞬間、柑橘の甘酸っぱいシャワーとともに、全ての感覚がよみがえった。世界は再び再生ボタンが押されて動き始めた。
振り返って仰ぎ見た病院の小さな窓。そこにいた自分に本当に別れを告げられたのか。不安はありながらも、あの日自分はそっと窓の縁に置いてきたのだろう。梶井のように黄色い檸檬の爆弾を。木っ端みじんにされたのは、丸善ではなく自分の憂鬱だった。
その檸檬の冷たい香りは、たとえようもなくよかった。
日の当たる白い部屋の窓辺、檸檬が一個、黄金色に輝いている。
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