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クチコミ
心がクサクサしたときは、自然の中に身を置くことにしている。ヤワな自分、ダメな自分のうつむいた心を吹き飛ばす、圧倒的な広い世界に飛び込んでいくのだ。
16年ぶりにスノーボードを抱えて山に向かった。スキーならほとんどのバーンはこなすが、ボードは中級でやめていた。あえてボードにしたのは、自分をこてんぱんに痛めつけてやりたくなったからだ。
時折ワイヤーをきしませながら、リフトが白い頂をめざして上がってゆく。斜め前方の眼下にハーフパイプがちらりと見えた。ウエアの袖をめくり、時間を確認する。その瞬間、手首からシコモアの香りが漂う。思わず顔に近づけて、深く香りを吸いこむ。燻した木の香りが鼻を突き抜け、意識が覚醒してゆく。
シコモアは、スナフキンの香りだ。勝手にそう思っている。
落ち葉を焚き付けにして、慎重に選んだ木の枝を、焚き火で焼いている香りがする。それは硬くてよく乾いた枝だ。白い煙も出さず、焦げ臭さも少ない。雪が降り始める前にムーミン谷を出て別の地方に向かうスナフキンの、孤独な漂泊の心を支える、温かく力強い香りだ。
8本目の支柱をこえた。残り半分。そう言えば新ムーミンのスナフキンはハーモニカだったな。いかんせん昭和な俺には、スナフキンと言えば、辛子色の服に茶色いハット、寡黙な吟遊詩人といった風情の旧スナフキンの方が正統だ。彼の哀愁あるギターは、今も俺の心に流れ続けている。
12本目の支柱をこえた。ぶるっと身震いする。それは寒さのせいか、それとも久々のライディングに感じる不安のせいか。確かボードで挫折したのもこんな曇天の吹雪の日だった。カービングもグラトリもできるようになって調子に乗っていた頃だ。ふと、攻めたことのないハーフパイプに入ってみたくなったのだ。胸がチクリと痛む。
16本目の支柱を越えて、リフトの降り口が眼前に近付いてくる。思わずグラブをずらし、シコモアの香りを大きく吸い込む。つけたてのサイプレスとジュニパーベリーのミックス、ヒノキ様の酸味のあるトップのウッディ香はすでに変化し、深いブラウンの薫香、ヴェチバーの勢いが強く出てきたミドルだ。上品なスモーキーで土臭くない。これがシコモアのすごいところだ。重たくややカビ臭い、根の香りのヴェチバーが、夏の日差しに熱せられた、大木の樹脂のような狂おしい香りになって広がる。ベースのクリーミーなサンダルウッドとの相性がいいのだろうか。やや苦み、渋味をもつ他の香料が、ベチバーを大木の幹の香りに昇華させている、そんなイメージだ。
高揚していた気分がすーっと落ち着いていく。あの日、この香りをかいでいたら、あんな無謀なドロップインはしなかったかも知れない。
やれる。そう思っていた。根拠もなしに。リップの高さは3mちょっと。フロントサイドでエアターンできなければ、リップ上のプラットフォームに上がってしまえばいい、それぐらいの軽い気持ちだった。
あのとき、俺は垂直の壁をすべり降り、一気にすり鉢状のアールをかけ登った。振り子の勢いで、ボードが自分の腰よりも高い位置にかけ上がろうとする。ぐんぐん壁がせりあがり、体が空中で仰向けになるような感覚になった。ヤバっ!そう思った瞬間、俺は、ボードがリップから飛び出す前に、大きく壁を蹴飛ばしていた。まるですり鉢の底に向かって背中からダイブするかのように。
次の瞬間、3mの高さから仰向けの体勢のまま、氷の底へたたきつけられた。グフッと肺から全ての空気が漏れた。背中から腰にかけて強烈な痛みが走った。息をするのがやっとだった。そそりたった氷壁からずり落ちていく俺の目に、低い灰色の雲が映っていた。雪が斜めに吹きつけていた。
ガタン。リフトが一気にせり上がって、スピードが急に緩くなる。降り口だ。右足をボードにのせて、滑り降りる。あの背骨のケガ以来だな、そう思いながら、ゲレンデを見下ろす。ゴーグルの視界のはじに、先ほどのハーフパイプが見えた。あれから16年だ。小さくなったのはパイプの壁の高さだけではない。俺の無謀さもまた、時を経て削れたらしかった。
ヒールサイドでずり落ちながら、ラインを見極める。エッジがよく効いている。いいライドができそうだ。また根拠もなくそんなことを思う。グラブのすそをめくり、もう一度シコモアの香りに身を任せる。スモーキー・ヴェチバー&クリーミー・サンダルウッド。少し焦げた、それでも、穏やかで力強い焚き火の香りだ。心の中でスナフキンの声がこだまする。
「嵐の中にボートを出すばかりが、勇気じゃないんだよ」
OK,スナフキン。今ならそれが分かる。
軽くオーリーしてボードを空中から落とし込む。その瞬間、風景と風が、ほおを切って流れ始めた。胸に赤々とシコモアの火を揺らして。
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