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クチコミ
夜のとばりの中、ベッドに体をすべりこませる。手首に付けたアンブル・スルタンが、濃密な樹脂の香りを漂わせている。
甘く、重く、スモーキーな木の油の香り。それを補うかのようにすっと鼻腔の奥に清涼感を届けるのは、オレガノやベイリーフ(カシアの葉)のハーブ。グリーンと琥珀色のバルサミックな香りのミックスは、不意になまめかしい肉や汗の臭いにさえ感じられる瞬間がある。
複雑で、そして猥雑なインセンス。それは、モロッコのマラケシュ。それは、あまたの店がひしめきあうスーク(市場)の雑踏。
シーツが自分の体温で温まり始める。手首からアンブル・スルタンの琥珀色の狂おしい香りが広がっていく。とろけるような木の蜜の甘さ、時を経て埃っぽくドライになった香木のまろやかさが、瞑想へと誘う。
それは千夜一夜の夢。
砂漠を進むキャラバン。ラクダのシルエット。ブラディ・オレンジに染まるオアシスの夕暮れ。1000のランプの灯りの下、ベリーダンスで腰をくねらせる女性の艶やかなロングドレス。その、蛇のような腕の動き。邪教に身を捧げた王位継承者の黒い欲望。煙るようなミルラの香り。魔神との契約を果たすために張られたサークル。
サンダルウッドの高い香りが、心地よい夢の世界へといざなう。
暗いスクリーン。目の前にナイル・デルタ、アレキサンドリアの港がパンされる。ナポレオン・ボナパルトがエジプト侵攻にやってくる。エジプトのベイ(知事)たちが大騒ぎをしている。フランスに勝つ手はあるのか?最強の軍隊を迎えうつマムルーク(奴隷)の精鋭部隊たちは、手に汗を握る。あまたのスパイスの香りが、カイロの街に広がっている。やがて、そこに火薬と鉄のさびた匂いと木の焦げる匂いが立ちこめる。
金も宝石も女も、ボナパルトの侵攻をくいとめることはできない。しかし、千夜一夜の語り部、ズームルッドの物語をまとめた秘本、この類いまれな奇異な本だけが、彼の心を変え、攻め滅ぼす。かくして、夜の語り部は、砂に呪われた者たちの歴史を語り、書家は一言一句を書き留めてゆく。パピルスの乾いた香り、ランプの油の香り、ベンゾイン(安息香)の甘苦い香りの中で、物語は何夜にもわたって紡がれてゆく。
そんな夢を見た。
モロッコの情景は、たぶん世界遺産のテレビの映像の影響だろう。ボナパルトのエジプト侵攻のシーンは、古田日出男さんの小説「アラビアの夜の種族」に描かれた世界そのままだ。
目覚めの朝、脈絡のない夢の片鱗はそのままに、もの憂い寝返りをうつ。うつぶせた腕の上に額をのせる。このまどろみの時間が、冬は特に恋しい。そして俺は感じる。えも言われぬ美しいスモーキーなヴァニラの甘い香りが、朝の冷たい空気を優しく包んでいることを。
その至福。その温かさ。
濃褐色の抽象的なアンバーの香りは、一晩の夢を経て、クリーム色のヴァニラの香りに変わっていた。その魔術。その秘法。それはあたかも、人々を惹きつけてやまない砂漠の街の、コバルト色の蜃気楼のようで。そして読む者の心をとらえて変えてしまう、世界でただ1冊の稀書に仕掛けられた魔法のように。心がとらわれて離れがたい思いにさせられる。
まだ薄暗い部屋の中、ベッドから体を起こして、カーテンの隙間から差し込む新しい光に目を細める。
昨夜手首に付けた魔法陣から、心をとろけさせるインセンス・ヴァニラの甘苦しい香りが漂っている。
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